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時代・年代から探す

先史~琉球王国時代(~1872年)
島の西部高台地で発見された巣飼原貝塚などから、粟国島には古くから人が住んでいたことが判明しています。しかし、それ以後の時代については定かではなく、部落の発祥についても確かな資料がありません。字西にある大屋(ウフヤー)という屋号が本島の根屋に相当するものと考えられ、その血縁集団が当地にはじめに住み着いたのではないかと考えられています。琉球王国誕生(1429年)後の1611年(慶長16年、尚寧王23年)に浜に番所が置かれ、初の地頭代が任命され久米島代官の管轄となります。1725年(享保10年、尚敬王13年)に在番、1734年(享保19年、尚敬王22年)に夫地頭が置かれ、1737年(元文2年、尚敬王25年)に八重村と浜村が新設されました。琉球王朝時代における粟国間切の貢租は粟・麦・黍で納められていました。

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琉球処分~戦前(1873~1944年)
1879年(明治12年)の廃藩置県に伴い琉球藩は廃止となり、沖縄県設置と同時に八重村は廃止され西村、東村が新設されました。1882年(明治15年)久米島代官の管轄から那覇所轄となり、1896年(明治29年)の沖縄郡制に伴い島尻郡役所の管轄となります。1903年(明治36年)、土地整理事業完了と同時に区制が施行されて西村、東村、浜村が廃止され、字西、字東、字浜に改称されます。
1898年(明治31年)には粟国尋常小学校が開設され、1909年(明治41年)の特別町村制により粟国間切は粟国村となります。1920年(大正9年)には一般町村制が施行され、議会選挙で初めて村長が選出され、字浜に置かれていた番所が字東に移され現在の役場となっています。

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戦後~2000年(1945~2000年)
第二次世界大戦では粟国村も戦禍の舞台となりました。1943年(昭和18年)から戦時体制が強化され、1944年(昭和19年)10月10日の「10・10空襲」以降、帰島する人が増え、1944年には約2,800人だった人口が終戦後の1946年(昭和21年)には約4,800人になっていたといわれています。粟国村では1945年(昭和20年)3月23日に最初の空襲があり、6月9日に米軍が艦砲射撃の後に上陸しました。1946年4月1日に軍政府任命村長に末吉達幸が就任。1948年(昭和23年)には地方自治法の施行に伴い村長選挙、村議会議員選挙が実施されました。1963年(昭和38年)には発電能力50kWの電力設備が整備され、1978年(昭和53年)2月に粟国島灯台が業務を開始、7月には粟国空港が開港。1979年(昭和54年)に電話がダイヤル化し、1983年(昭和58年)には防災行政無線が導入されました。

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現代(2001年~)
1992年(平成4年)に村一周道路土木工事を開始され、土地改良事業や漁港整備など粟国村の基盤整備が着々と進められてきました。2000年(平成12年)には、粟国島が舞台の映画「ナビィの恋」が上映され、県内外で話題を呼びました。2002年(平成14年)8月には451トンの「フェリーあぐに」が就航し、那覇・粟国間の所要時間が約2時間10分に短縮されました。
2003年(平成15年)4月には海水淡水化施設が完成。
2004年(平成16年)には焼却施設「美ら島あぐにクリーンセンター」が稼動。2006年(平成18年)に電話回線がADSL化。2011年(平成23年)3月には粟国村製糖施設(含みつ製造)が落成し、粟国村の産業振興に大きな期待が寄せられています。

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  • 粟国島の公式サイト 粟国島
  • 沖縄の奥、島の奥「おくなわ」
  • 粟国島ひと口講座
  • おきなわ物語

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