平成25年度粟国村村勢要覧

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平成25年度粟国村村勢要覧

粟国コラム県内で一日に15~16万食も食べられているという沖縄そば。その歴史には、粟国出身者が深くかかわっている。一般に、沖縄そばの原型が世に現れたのが明治の半ば以降といわれているが、現在の沖縄そばにつながる形になるのは大正の初め頃。いくつものそば屋が那覇に開業したのである。その中の一つ、井筒屋は粟国出身の新里有一郎氏が開いたそば屋で、店の屋号入りの碗を作らせたり、かき氷を販売したりといった試みがあたり、多くの客が集まったという。井筒屋は戦後、そば屋の中ではもっとも早い時期に復興し、後に「毎日2000杯を売る」伝説の名店として語り継がれていくのである。沖縄そばの歴史の中で、一つの時代を築いたといっても過言ではない。Agunicolumn粟国コラム1905年、日露戦争時に行われた日本海海戦に先立ち、バルチック艦隊発見の知らせを宮古島から石垣島に伝えた5人の漁師は、のちに「久松五勇士」と呼ばれ、その名を歴史に残している。ところで、バルチック艦隊を最初に発見したのは、奥浜牛という粟国島出身の青年だったということは、あまり知られていないのではないだろうか。1905年5月23日、那覇から宮古島へ雑貨物を運んでいた奥浜氏は、極東へ向っていたロシア海軍のバルチック艦隊に遭遇した。バルチック艦隊も彼を視認していたが、龍の大漁旗と、独特の長髪のために中国人と判断して捕えなかったようだ。奥浜氏は宮古島の漲水港(現・平良港)に26日午前10時頃に着き、駐在所の警察官とともに役場に駆け込み、その情報を伝えたのである。奥浜氏は世を去る時、請書に捺印した印鑑を遺族に渡した。その時遺言として、その印判は自身が重大な役目を果たしたるものだから、他日の役に立つことがあろうと遺されたという。奥浜氏最初に発見したバルチック艦隊をバルチック艦隊18